雨宿り

真夜中のどしゃ降り、雨は煙り光はまばら、眼下に広がる景色をなんとはなしに眺めて、私は一つため息をついた。本来なら家で過ごしているはずだったこの時間、兄さまと私はなぜかホテルで時間を持て余している。大蔵ーーこの市の中心街で用事を済ませて、ついでに早めの晩御飯も外で食べて、遅くても20:00には家に着いている予定だった。しかし突然の豪雨、電車は予想外に未だ運休、そこまではまだ良し。車を呼べば帰れるであろうその状況で、兄さまはしかし私の電話を止めた。

「ホテルに泊まればいいじゃん」と。

私の手を引き、駅直結のホテルに気軽に向かっていったのだった。

雷がごろごろと空を鳴らしている。シャワーの音よりはもちろん大きい。

先にお風呂に入り終えた私は、兄さまが、話し相手が戻るのを待っている。そう珍しく、兄さまは一緒に入るとは言ってこなかったし、勝手に入って来もしなかった。だから私が入った後に兄さまが今お風呂に入っている。順当に。私は窓辺で雨滴を見るのを止めて、ベッドに体を預ける。

いや、一緒に入らないのが『珍しい』というのも、どうなんだろう?

寝ながら腕を組み、首を傾げる。シーツの上で髪が流れた。

お風呂に二人で入るのが嫌ーーなわけではないが、疑問ではある。それに男女七歳にして何とやら、の年齢も大幅に飛び越して、お風呂に入るのも倫理的にどうなのだろう。倫理と言うか。慣習と言うか。社会一般通念と言うか。

そんなものを持ち出したところで、兄さまはたやすく一蹴するだろうけど。

兄さまは強い。具体性のない『一般』に惑わされたりしない。自分がやると言ったらやるのだ。そこに揺らぎはない。確固たる自己と自信が兄さまの中にある。

まあ、つまりは、人の話を聞かないということだ。私が断ったところで無駄なので、というか余計手に負えなくなる気がするので、もう好きにしてほしい、という諦めの気持ちで胸がいっぱいなのである。常に。

ーー他人に。

兄さまは、話を聞くだけの価値を見出していないということかもしれないけれど。

寝返りをうつ。

雨音は弱まらず、夜はしばらく明けない。

テレビでも見ましょうかね、とゆっくり起きあがったところで、ドアが開く。兄さまがお風呂から上がったようだ。雑にタオルで拭かれた髪が荒れている。「兄さま」と声をかける前に、目が合った。

「髪、乾かしました? 乾かしていませんよね」
「乾かしてる最中だよ」
「そうではなくドライヤーで」
「あー…」

肯定も否定もせず、兄さまは私とは別のベッドに腰掛ける。据わっている目からして多分眠いのだ。かろうじて意識を保っているような険しい顔に、私は手を伸ばす。

「このまま寝たら風邪をひいてしまいます」
「じゃあ乾かして」
「それは良いですけど」
「うん」
「移動できます?」
「……」
「嫌そうな顔されても…」

寝たいなあ、という呟きを一旦無視して、兄さまを立ち上がらせ、手を繋いで、隣の部屋を経由し洗面所まで辿り着く。先ほど私が使ったドライヤーをコンセントに差し、既に椅子に座っている兄さまの後ろに回る。

温風が、兄さまの髪にまとわりついたままの水滴を飛ばす。腕にかかる雫が外の情景を呼び起こす。

「今日雨降りだって、天気予報で言ってました?」
「知らね」
「言ってなかったと思うんですよね、ましてこんな、電車が止まるほどとは…」
「所詮予報だろ」
「そうですけど」
「野宿じゃないだけ良いと思えよ」
「そこですか?」

街中でそんなサバイバルをするつもりは、そもそもなかったのだが。

兄さまの中にその発想があること自体に、恐怖を覚える。

「なに《怯えた》顔してんだよ」と兄さまが言う。兄さまの背後にいるのにどうして、と思ったが、なるほど鏡に映っていたらしい。兄さまは兄さまで怪訝な顔をしている。

「この雨の中投げ出されたら凍え死んでしまうと思います」
「生き残れる生き残れる」
「辛い目に遭うのは嫌ですよ」
「大体さあ」

「僕と一緒にいるんだからさ、何を《怯える》ことがあんの?」と兄さまは不意に顔を上げ、私を見上げる。鏡越しではなく、直接に、私と目を合わせる。

兄さまは強いなあ、と私は思う。思うだけで口からは出なくて、代わりにドライヤーのスイッチを切る。「もういいの?」と兄さまは髪を撫でた。「前髪、まだ濡れてるんだけど」と、気づけば口調は先ほどよりもはっきりしていて、どうやら眠たかった目も冴えたようだ。

「……鬱陶しがるかと思って。乾かします?」
「うん」

続けて、と兄さまはドライヤーの電源が入るのを待った。それに応えるように私は再度スイッチを入れ、兄さまの前髪に触れる。万が一にも兄さまにぶつけないように、慎重にドライヤーを揺らし、風で水を飛ばしていく。

風力を強めて最大、それでも兄さまの声が耳に入って、その言葉に私の頬はきっと赤い。それに追い打ちをかけるように兄さまは、「ベッドは一つでも事足りたかもな」などと言う。

「え、い、一緒に寝るんですか」
「寒いじゃん」
「空調入ってますよ…」
「《嫌》なの?」
「う」

それに嫌だと言えない時点で、私は既に負けているのだ。拒めない気持ちを見抜いた兄さまは、とっくに同じベッドで寝る気でいる。「雨で身体も冷えたしな」と兄さまは適当なことを言って、「それを暖めるためのお風呂でしょう」と私に真面目に返される。

鏡の中の私は眉間にしわを寄せている。兄さまは兄さまでどこか上機嫌だ。それを見つけた私は、ドライヤーの電源を切り、洗面台に置いて、兄さまの後頭部に頭突きした。文句を言われるかと覚悟もしたけれど、兄さまは笑うだけ。

「しょうがねぇ愚妹だな」と言う弾んだ声に、どう返したって敵わない、そんなことはわかってる、わかっているんだけど。「どのみち問答無用なんでしょう」と不服そうに伝えれば、「わかってんじゃねぇか」と髪をぐしゃぐしゃにされた。ため息も出ない私をよそに兄さまは歯を磨き始める。それにつられて、私も歯ブラシの袋を開けた。

(20200308)

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