膝枕
「兄さま」と声をかけてもまるで無為、こちらの心情はまるで察さずーーというか察する気が1mmたりともない兄さまは、本を除け私の顔を見て「なに?」と首を傾げた。私の膝の上でである。
床に座る私の膝にすべりこんで、兄さまは私を枕にし、何かの本を読んでいる。まあ、今に始まったことでもない。兄さまの髪を少しだけすくって、手でとかす。心地良いと感じているのかいないのか、兄さまはわずかに目を細めた。
「いえ、その……何でもありません」
「そ?」
何か言いたそうな雰囲気が出ていたと思うのだが、兄さまは気にせず、あるいは気づかずまた本を読み始めてしまった。兄さまは暇なときに大方読書をしているが、本来は速読ができるはずで、今みたいに人並みのスピードで本をめくっているのは実はおかしい。というか一度読んだ本なら内容を覚えていたと思うし、改めて何度も読む必要はない。推測だけれど、正に暇だから本ーーというか、文字に目を通しているだけなのだろう。活字中毒というものでしょうか、と私はシャープペンシルを唇に当てる。
そもそも私は課題のドリルを解いていたのだ。兄さまに突然振り回される前に、宿題を終えてしまわなければ。
いつ何をしたいどこに行きたい、何を食べたいと言われるともわからないし。準備は万全にしておかなければならないのです。
と、やる気に満ち満ちたところで気づいてしまった視線。そっと下に目をやると、兄さまが私を見上げている。その手に持っていたはずの本はいつの間にかおなかの上に置かれていて、兄さまはただじっと、じっと私を見つめている。顎のあたりをこしこしこすってみても、何もついていない。
何となく居心地の悪さを感じながら、視線の意味も聞かぬままに私は課題に目をやる。幸いにも解き方はわかるので、途中の計算に気をつけて回答を埋めていくだけだ。埋めていくだけなんですが。
兄さまはいったいいつまで私を見つめているのですか。
いや、ただ上を向いているだけで、私を見ているわけではなく、天井かどこかを見ているだけなのかもしれない。そうに違いありません! 課題もあと半分以上が残っている。
何か言いたいことがあるのなら、こんな回りくどいことをしないでとっくに話しかけてきているだろう。構ってほしいなら袖でも引っ張ってきているだろうし。それなら私は気にせずに、自分のするべきことを続けて良いのだ。
ということで課題を、課題を続けたい私と、黙ったままの兄さま。もしかしたらもう寝ているのかもしれないけれど、万が一目が合ったときにどう反応して良いのかがわからないので、とにかく兄さまに目を向けないようにする。というか本を再度読んでくれて良いんですけど、本を手に取っている気配がないんですよね。兄さま今何を考えているんですか? 兄さま…。呼吸の音はしている。
しているけども。
課題を八割ほど進めたところで、辛抱ならなくなって膝の上を見る。兄さまの頭は変わらずそこにあって、予想通りに兄さまと視線が交差した。「何だよ」と兄さまが私に向けて言う。私が言いたいことを兄さまが言う。
「兄さまこそ……。…いえ、思い違いかもしれませんが」
「ん?」
「……なんでもありません」
「ふん」
兄さまが私の手に触れたかと思えば、むくりと身体を起こしてテーブルの上を見る。「課題終わったの?」という問いに「まだあと2、3問」と答えると、「終わってねぇのかよ」とせっかく離した頭をまた、私の膝に押し当てた。
「す、あと少し、あと少しです」
「あと何分?」
「ん…10分、ですかね?」
「答えならわかるよ」
「答えならわかるんですよ」
答案なら持っている。
だけど解答までの過程も見られるのだ。それを兄さまに言ったなら、なぜその程度のことをいちいち示さなきゃならないんだ、と文句を言われるだろうからあえては言わない。問題を見れば結果はわかる、そんな人が存在していることは兄さまで十分証明できるけれど、だからといって私が答えだけ書いても怒られるだけなんですよね、多分。凡人ですので。
なお、兄さまは人に教えるのが壊滅的に下手なので、解き方は聞かない。
というか以前尋ねたら、これはこういう式だから、こう。と本当に答えだけ出された。その上で当然でしょ? といった顔をされた。それからは聞いていない。
そんな私の思いはよそに、兄さまは私のふとももに顎を乗せ、足をぱたぱた上下に動かしている。子供みたいですね、と思ったけれど、口に出せばきっと怒られるので、胸の中にそっとしまっておく。
と言うか、終わっていないことに対して、なぜちょっと怒っている気配がするのだろう。何かしたいことでもあるのだろうか。それにしたって、いつもはこちらの事情も聞かずすぐ良いように巻き込んでくるのに。
手を止めて考え込んでいる私を見て、兄さまは「何止まってんだよ」と文句を言う。
「早くしろよ。10分やそこらで終わるっつっただろ」
「わあすみません」
「もうそれ以上は待たねぇからな」
「えっ」
「なに」
「いえ、その……」
待っていてくれたんですか、と聞くと、兄さまはちらりとこちらを見たっきり、何も言わない。
その代わりにしばらくしてから、「祖父さまが水羊羹貰ってきたってよ」とさもつまらなさそうに呟いた。
私は気づかれないように、声は出さずに笑って、「もう少ししたらお茶を淹れますね」と伝え残りの問題を解き始める。兄さまはとくに反応を見せず、でも黙って、私の課題が終わるのを待っている。待ち続けている。待ってくれている。「笑ってる暇あんのかよ」と結局はばれてしまったけれど、兄さまが私のこと、尊重してくれたのが嬉しいんだから、仕方ないですよね、ね? 兄さま。
(20200308)
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